君との約束―後編―
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■シリーズシナリオ
担当:月原みなみ
対応レベル:フリーlv
難易度:難しい
成功報酬:5
参加人数:6人
サポート参加人数:2人
冒険期間:03月31日〜04月05日
リプレイ公開日:2008年04月08日
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●オープニング
その少年は、かつて暮らしていた世界でノルマンと呼ばれていた地のとある村に生まれ、人間とエルフ、二つの種族の血を引くとして周囲の者達に忌避されながら十一年間を過ごした。
十一年とはいえ、混血の少年の身体は保護を必要とする幼児そのもの。
しかし出自ゆえにろくな食事も与えられぬ環境が更に彼を痩せ細らせた。
繰り返されるのは侮蔑の日々。
向けられるのは嘲りと、嫌悪の念。
――そしてあの日、彼は逃げ出した。
生死の概念もまだ悟れぬ子供は、ただ、逃げたのだ。
「あの時は何が飛び込んで来たのかと、驚いたなんてもんじゃなかったぞ」
その日を振り返って笑うのは、森の途中で野営していた冒険者達の中で夜の見張りに立っていたエイジャ――後に少年の養い親となった男だ。
「ガリッガリのボロッボロだったもんなぁ、おまえ」
得意ではない料理を、それでも少年を成長させるべく手作りして食べさせる彼は、一緒に食事をしながら、そんなふうに出会った頃を懐かしんだ。
村人達が混血の子供を恐れていたのと同様、人間を恐れていた少年は、森の中で人間に遭遇した事で半狂乱に陥った。
叫び、暴れ、言葉もろくに喋れぬ少年を、エイジャは必死で落ち着かせようと試みた。
その内に起き出した彼の仲間も説得を手伝い、真夜中の大騒ぎ。
共に行動していた仲間が人間だけでなく、エルフやパラ、そして少年と同じハーフエルフも一緒だった事が幸いした。
恐れる事は無いのだと、一時間以上も経過してからようやく理解した少年は、その後で更に一時間、今度は大声を上げて泣き続けたのである。
「おまえは最初っから手の掛かる子供だったよなぁ」
彼は笑う。
「ま、とりあえず大きくなりな」
言って、微笑うのだ。
二人で暮らすようになってから三ヵ月程が経過した頃だったろうか。
「ところでさ。おまえは、いつになったら俺を親父と呼んでくれるんだ?」
エイジャが不意に漏らした寂しげな言葉。
混血の自分が父と呼ぶことで、周囲の人々があらぬ誤解を抱くのではと懸念していた少年は「呼ぶわけないっ!」と真っ向から拒否した。
しかしエイジャも引き下がらない。
「よし、じゃあ賭けをしよう」
「賭け?」
「おぉ。俺が勝ったら、俺様を尊敬して父と呼べ」
「――」
思わず絶句したなら、エイジャは頬を引き攣らせる。
「おまえ、いま俺を馬鹿だと思ったろう」
「だって馬鹿だ‥‥」
「なんだとぉっ?」
「うわっ」
背後からホールドを掛けるエイジャ――もちろん子供相手に恰好だけの真似事であるが、そうして戯れる二人を周りの人々は暖かく見守っていた、……遠い日々。
*
「実現なんか‥‥しなかったじゃないか‥‥」
懐かしい夢を見たと、ユアンは眉根を寄せた。
師匠との約束で朝の鍛錬を始める時間だったが、眠りの中で聞いた養い親の声を思い出すと身体が動かない。
こんなんじゃダメだ、と深呼吸しようとしたその時。
――ニャー‥‥
「?」
窓の外。
一匹の黒猫が座っていた。
「おまえ、最近よく見かけるな」
ユアンは呟きながら外に出ると、その場に膝を折って小さな頭を撫でてやった。
ごろごろと嬉しそうに喉を鳴らす姿を見ていると、‥‥何故だろう。
話したくなる。
「エイジャにはさ、‥‥好きな人がいたんだよ。俺も会った事あるんだ。ずっと一緒に冒険して来た、エルフの女の人。なんか、ずっと振られ続けていたみたいだけど」
相手の気持ちまでは判らない。
だが、エイジャの仲間にはユアンと同じハーフエルフもいた。
例え彼女が同じ想いでも、混血の子供の未来を考えれば易々と受け入れられるものではなかっただろう。
「それでさ、エイジャと賭けをしたんだ」
内容は至って単純。
自分が彼女を口説き落として結婚出来たら俺の勝ち。
その時には自分を「父」と呼べ。
「エイジャが負けたらどうするって聞いたら一生かけて勝負するから負けはないんだってさ‥‥、変な話だよな、‥‥っていうか猫相手に話している俺も変かな‥‥」
「にゃー」
まるで同意するように鳴く黒猫。
苦笑いの表情になるユアンは、さぁ朝の稽古だと気を取り直すべく立ち上がる。
「‥‥」
まだ青白い空を仰ぎ、目を細めた。
一度も父とは呼べなかった人を想った。
●
数時間後、ギルドには受付係と冒険者達の他に、リラと、彼の仲間であり陰陽師の兄妹、石動良哉と香代の姿もあった。
ケイトの死を知らされて茫然自失となるリラ、良哉を前に、あの日に起きた出来事が語られる。
最初に異常を来したのはナイトのルディ・オールラントだ。
彼は良哉の命をネタに香代を脅し、ケイトを呼び出させた。
彼女の姿が見えなくなればエイジャが動く事は予想済みであり、冒険の最中に単独行動をしないのは暗黙の了解。
リラが彼に同行するのも目に見えていた。
あとはルディに指示されるがまま、香代が陽魔法を用いてリラを狂化させ、エイジャを討たせる。
香代が「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら謝る姿に、彼は何を思っただろう。
剣を抜くことなくリラの手に掛かったのだ。
「エイジャ‥‥っ」
あの日の血を思い出して顔を歪めるリラに、香代は「ごめんなさい」を繰り返す。
「ルディの傍にいた魔物は一匹や二匹じゃなかった‥‥っ‥何匹も何匹も‥‥っ、言う事を聞かないなら全員を殺してやるって‥‥もうルディはいつもの彼じゃなくて‥‥っ‥彼は楽しんでた‥‥っ‥仲間が苦しむのを楽しんでいたの‥‥っ!」
彼の脅迫を跳ね返せなかった彼女は、もはや、誰にも救いを求められなかった。
更に、ケイトの元に黒猫に扮して潜り込んだカオスの魔物は彼女を監視していた。
香代が裏切ればケイトは殺される、そういう脅しだ。
何もしなくても、その内に一人、また一人と狂わされていくだろうことは考えれば判った。
だが今すぐにも目の前で起こせるという惨劇を思うと、逆らう事など出来なかった。
「‥‥けれど香代さんが話してくれる前にケイトさんは殺されました。どうしてですか」
受付係が問えば、香代は拳を握る。
「ルディからの宣戦布告‥‥だと思います‥‥」
カオスの魔物の存在を疑う冒険者達の接近に、自分はいつでも仲間を殺せるという――。
「カインは?」
ルディの兄、カイン・オールラントは何処にいるのかとリラが問う。
しかし誰一人その所在を知らない。
「カインならルディの異常にいち早く気付いただろう。その末に姿を消したんだとしたら‥‥」
良哉の言葉に最悪の展開が脳裏を過ぎる。
冒険者達は左右に首を振った。
「それも心配だが、目先の問題はケイトの傍にいた黒猫が今どこにいるか、だ」
「香代さん、思い当たる場所はありませんか? 今までの話を聞くに、ただ姿を消しただけとは思えないのですが‥‥」
「そう言われても‥‥」
全員が考え込む。
その内にはっと顔を上げたのは、リラ。
「もしケイトの死が君達への宣戦布告だとすれば、‥‥この関係で君達に一番ダメージを与えられる存在は、ユアンではないだろうか」
「そんな‥‥っ」
その可能性を否定したい衝動に駆られながらも、冒険者達は確かめるべく動き出す――。
●リプレイ本文
慎重に動き過ぎては間に合わなくなる。
かと言って性急に動けば敵の思う壺。
冒険者達は綿密な計画のもと、自分達から行動を起こすようなことはせずに、ユアンの傍でしばらく敵の出方を見ると決めた。
それから三日。
彼らは、ユアンの前には既に黒猫が度々姿を現していたと知り緊張感を高まらせたが、以降、その姿を見る事はなかった。
あちらも警戒しているのか。
それとも、これという瞬間を静かに待っているのか。
師匠として常にユアンの傍にいる飛天龍(eb0010)が持つ『石の中の蝶』が反応を見せる事はなく、また、ユアンに会う勇気が持てずに陰ながらその安否を気にしているリラや、石動兄妹の方でも、今や友の形見となった『石の中の蝶』が敵の接近を感知する事はなかったのである。
「嵐の前の静けさ、ってやつかね」
ぽつりと呟くのは物見昴(eb7871)。
彼女はキース・ファラン(eb4324)、リール・アルシャス(eb4402)と共に、リラと石動兄妹、そしてクイナの家族を交代で警護していた。
場所はユアンが暮らす村からそれほど離れていない位置に立つ家屋。
守るべきはユアンと聞かされても、あの少年を『守る』事には隣に暮らす優しい家族や、養い親をよく知る彼らも含まれると考えた冒険者達は、一定の範囲内に全員を集めて守れるよう考えたのである。
「‥‥とりあえず、茶でも飲むか?」
日が経つにつれて顔色を悪くして行く妹を気遣いながら声を掛ける。
これまでの罪悪感と、不安が、彼女の精神状態を悪化させているのだと容易に想像出来る昴は、こんな時こそ落ち着かなければならないと思う。
中身こそウィルで手に入り易いハーブティだが、持参した唐物の茶釜で湯を沸かせば、兄の方が身を乗り出してきた。
「驚いたな‥‥アトランティスでこんな名品に会えるとは思わなかった」と舐めるように釜を見つめるという、現状を忘れかけた兄の態度に、思わず妹の表情も崩れた。
「兄さん」と呆れた声で諌める、そんな状態の好転に昴も静かに安堵する。
同時に、虚空を見つめてかの少年を思う。
今頃は真実の片鱗を聞かされているだろう、ユアンの事を。
●
「はぁっつ!」
ブンッ――空気を鳴らす勢いで放たれたユアンの拳を、しかし余裕の表情でかわして見せるのは天龍。
「せいっ! はっ!」
二撃、三撃と繰り出される攻撃も、身体を左右に移動させるという単純な動きで避けられてしまってはユアンの表情に焦りが浮かぶ。
あんなに一生懸命に練習して来たのに、成長の欠片も感じられない。
強さが及ばない事よりも、師匠にそう思われる事が怖くなる。
「‥‥っ」
無意識に顔を歪めて拳を突き出した。
と、それを大きな手に取り押さえられる。
「!」
「突然どうした? 良い感じだったのに、いきなり体に負担を掛けるような動きに変わったぞ」
陸奥勇人(ea3329)の問い掛けに、ユアンは僅かに目を瞠って聞き返す。
「ぉ‥‥俺、少しは‥‥成長、してるかな‥‥」
「ああ」
即答するのは天龍だ。
「最初に会った頃に比べたら段違いに身体のバネが強くなっているぞ。動きが滑らかになっているし、もう肘や膝が痛くなる事もないんじゃないか?」
「‥‥うん」
その通りだと頷く少年の頭を、天龍の手が撫でてやる。
「ちゃんと功夫を積んでいるようだな」
「師匠‥‥」
シフールの彼は自らの羽根で飛翔しなければユアンの頭上には届かず、その手もユアンの知る大人達に比べれば小さなはずなのに、誰よりも大きく感じられて、‥‥それは、エイジャに褒められた日を思い出させる。
「ありがとうございます」
少し照れたように礼儀正しく頭を下げる、そういった態度も最初の頃には無かった姿だ。
ユアンは確かに成長している。
その確信が、彼らの「事実を告げよう」という思いを後押しした。
彼に迫り来るものがカオスの魔物の脅威なら、これ以上の先延ばしはかえって仇になる。
伝えるのならば今しかない。
「ユアン、おまえに話しておかねばならん事がある」
「そのままで聞いてくれ」
語りかける天龍、勇人に、少年は表情を変えない。
「実はおまえに謝らなきゃならない事があってな。俺達はエイジャとは顔見知りじゃない。残念だが、彼と冒険をする機会はなかったんだ」
「‥‥」
少年の変化は僅かに丸くなった瞳。
ただ、それだけ。
「元々俺達はエイジャの知り合いではなく、おまえを心配したクイナの依頼を受けて来たんだ」
「依頼‥‥?」
冒険者ギルドにおけるそれは、かつてエイジャも仕事を請け負うために行っていたこと。
出会ったのは依頼の一環。
関わったのも仕事の内。
だが、こうして幾度となく会いに来たのは――。
「あの時はユアンと早く打ち解けようと、エイジャから頼まれたと言ったが、今は俺自身がユアンの力になりたいと思っている」
「‥‥」
「おまえと向き合うために必要だったとはいえ、嘘をつき、騙したことに変わりはない。すまなかった」
真摯に告げられる言葉は、責められる事も覚悟した潔さを伴っていた。
ユアンは、しばらく何の反応も示せなかった。
二人の言葉を胸中で何度も繰り返し、その意味を掴み取ろうとしているかのようにも見える。
「‥‥エイジャが‥‥」
いつしか聞こえたのは少年を育てた男の名。
「エイジャは‥‥『勝負事に負けはない』‥‥って、いつも言ってた」
例えその時は負けても、次の挑戦を諦めない限り勝負は続けられる。
「‥‥信じるのも同じなんだ‥信じるって決めたら最後まで信じる、そうしたら騙される事もない、って」
例えその時は騙されたとしても。
裏切られたとしても、信じればいい。
一度信じると決めた相手ならそれでいい、――エイジャは、そう信じながらこの子供を育てて来た。
「だから俺‥‥師匠達に騙されたなんて思ってない‥、嘘を吐かれたなんて思わない」
彼らだけじゃなく、この場にはいない冒険者達も、そしてクイナも。
「俺、大事にされてたんだって、今は判ってる」
「ユアン‥‥」
目元を和らげた彼らに少年は笑う。
「‥‥俺、成長したんだ」
冗談のように。
強がりのように。
それでも、笑顔で。
「ああ、成長したな!」
勇人はユアンを抱き上げて褒めた。
天龍も、目線の高さを合わせるように更に高度を上げて、やはり褒める。
まだ最大の難関が残っているとは言え、ユアンは大丈夫だと、彼らもまたそう信じた。
●
「良かった、それを聞いて安心したよ」
ユアンのもとから、リールと交替で戻ってきた勇人から少年の話を聞いたキースは大きく安堵の息を吐いた。
大事な時に傍にいられなかったのは悔しいが、しかしキースには同じくらい大事な役目があった。
対カオスの魔物となる今、戦闘にはリラや石動兄妹の力も借りたい。
そのための説得である。
「どうだった?」
「リラさんはすぐに了承してくれたんだけどな‥‥」
二人は部屋の隅で話す。
ユアンを守るためならば是が非でもと答えたリラに対し、やはり石動兄妹――特に妹の方は頑なだった。
もはやこの場にいる全員が同じ危険を背負っているのだということは熟知していても、自分が前線に出ることで再びリラを狂化させる要因となるかもしれない己を、彼女は怖がっているのだ。
その心の傷は深い。
「でもさ‥‥何か、今のユアンの話を聞いていたら、エイジャってリラさんが言っていた通り底抜けのお人好しだったんだな」
キースの言葉に、勇人は目を瞬かせた。
「だってさ、信じると決めた相手なら裏切られても信じろなんて簡単じゃないだろ。それを、実際に自分が討たれた時にだって信じていたんだろうし」
だからこそ剣を抜くことなく討たれた。
何度も泣きながら謝る香代を責めもせず、ユアンを頼むと言い残して。
「ぁ‥‥」
「それだ!」
言っていて気付く。
それは何にも勝る説得の言葉だった。
*
一方、皆から距離を置いた場所で辺りの静寂に耳を傾ける一人のエルフがいた。
樹齢数十年という頑丈な枝の上に腰掛けて目を閉じているのはシルバー・ストーム(ea3651)。まだ敵側に顔の割れていない唯一の人物と言っていい。
彼は周囲の変化を欠片も逃さないよう意識を集中させていた。
静かに。
ただ、静かに。
その時を待っていた。
●
四日目に入り、ユアンが天龍と朝の鍛錬を積んでいる頃、彼らの朝食を準備していたリールは、外に出たところで隣家に宿泊していた昴と会った。
「昨夜は何ともなかったよ」
「こちらもだ」
互いに無事だったことを報告し、同時に難しい顔になる。
「ここまで何もして来ないってのは、かえって不気味だね」
嘆息交じりの昴の呟きにリールは重々しく頷く。
「カオスの魔物は一体何を考えているのか‥‥」
「あぁ‥‥」
時間は、彼女達の言う通り不気味に何事も無く過ぎて行く。
あちらもまた、彼らの出方を見ているのか。
――変化は、数時間後に起きた。
*
「香代殿」
自分との交替のために来たと思っていたキースと勇人の傍に、リラと、そして石動兄妹の姿があったことにリールは驚いた。
説得出来たのか、と。
そんな思いを込めて駆け寄り言葉を交わすうち、屋内からユアンが顔を出してきた。
「リール姉ちゃん?」
その子供の姿に、リラと石動兄妹は息を飲んだ。
思わず後退しかけた者もいたが、それは背後に立つキースがこらえさせる。
「あれ‥‥」
どこかで見覚えのある姿にユアンの目が見開かれる。
「確かエイジャの仲間の‥‥」
驚きのあまりか、思わず指を差して呟く少年。
「‥‥っ」
逃げ出したい衝動に駆られる香代と、拳を握り締めて留まろうとするリラ。
「ユアン‥‥」
悔やんでも悔やみきれないその名を口にした、その直後。
「ユアン走れ!」
「え?」
命じたのは天龍だ。
一瞬にして辺りを駆け抜けた緊張。
「ユアン!」
それに気付いたリールも少年の手を引いて背後に下がらせ、勇人、キースも石動兄妹の前に出る。
「!」
クイナ宅から出て来た昴もそれに気付いた。
「あ‥‥、おまえ‥‥」
ユアンが不思議そうに呟く。
冒険者達の見据える先にいたのは一匹の黒猫。
「にゃー」と鳴く姿は普通の猫だ。
だが。
「‥‥間違いないね」
リラが持参したエイジャの剣、その柄に下げられた『石の中の蝶』が羽ばたく姿に昴が呟く。
「ああ」
返すのは、自らそれを所持している天龍。
「ようやくのお出ましか」
勇人、キース、そしてリールも剣を抜き、昴は短刀を構えて石動兄弟の前に立つ。
「おいで」
「え、でも‥‥」
そう言いながらユアンの手を引いて更に後方へ下がらせたのはリラだ。
「――」
その手に持たれたエイジャの剣に、少年は目を見開く。
「にゃー」
猫が鳴く。
二度目の。
「‥‥っ」
怯えて更に下がろうとする香代に、猫の口元が弧を描く。
それは、笑っていた。
普通の猫ではない、状況を把握していないユアンにも知れるほどに見るものを恐怖に陥れる不気味な笑み。
「なに‥‥っ」
次第にその黒い毛並みが逆立ち、背に現れたるはコウモリに良く似た漆黒の翼。
「!!」
ただの黒猫だったはずの生き物は、もはや全くの別物。
翼を生やした黒豹となって、その口元に妖しい笑みを湛えていた。
『マタ 裏切ル カ』
酷く掠れて聞き難い言葉は、しかし魔物の嘲り。
『ドチラ ヲ 裏切ル カ』
問い掛けの先には香代。
「いや‥‥っ」
魔物の言葉は魔法でも何でもない。
だが、長く彼女の心に植えつけられた恐怖心を煽るには充分であり、発作的に彼女が取り出した懐剣を自らの首筋に当てさせる。
「馬鹿かっ!」
それを叩き落すのは昴。
「エイジャさんを知る者が根こそぎいなくなったら、誰がユアンに真実を語ってやるって言うんだい!」
「‥‥っでも‥‥!!」
『ドチラ ヲ 裏切ル カ』
魔物は繰り返す。
悪意に満ちた響きを。
『ドチラ ヲ 裏切ル カ』
「――そこまでにして貰おうか、悪魔野郎」
前に進み出るは勇人。
「人の心を惑わし弄ぶ‥‥、俺は貴様を許さん」
「デビルとあらば手加減無用」
「全てはおまえのせいで‥‥っ!」
天龍、リールと進み出る中で、昴とキースは石動兄妹を、リラはユアンを庇い、立つ。
『オマエ 達 モ 裏切レ――』
ニィィッ‥‥と笑う魔物の全身が青黒い光りに包まれ始める。
魔法詠唱、それよりも早く動き出す。
「成敗!!」
勇人の聖剣が振り下ろされ、描かれた軌跡を、だが魔物はかわした。
中断される詠唱は、しかし終わらない。
「発動させてたまるか!」
リールがこれ以上の隙は与えまいと勇人の攻撃の合間を縫うように技を仕掛けた。
だがこれもかわされる。
自らの翼で上空にも逃げ場を持つ黒豹は複数の敵を相手に限られた空間を最大限に活用していたのだ。
だが、上空で戦える者ならばこちらにもいる。
数々の戦場に立ってきた冒険者達は、その判断も早かった。
「物見さん、この二人を頼む」
「ああ」
言って走り出したのはキースだ。
「陸奥さん!」
「行けっ」
肩を借りて、飛ぶ。
その背に天龍がつく。
「落ちろ!」
その高さで振り下ろされた剣を避けた魔物、始まる詠唱。
だが、その直後。
『―――ッ!!!!』
詠唱を中断させたのは見えざる力。
一度きりしかない絶好の機会に魔法を発動させ、魔物から声を奪ったのは、姿を見せないシルバーだ。
突然の事態に魔物の表情に焦りが浮かぶ、その隙を逃しはしない。
「覚悟!!」
キースの背後から現れた天龍は更に高い位置から黒豹を撃つ。
魔力を帯びたその武器から繰り出される奥義は決して敵を逃さない。
『―――――‥‥‥‥ッ!!』
声を失わされた魔物は、その悲鳴で大気を震わせた。
切断された前右足が宙に離れ、その輪郭を失うまでわずか数秒。
魔物は、その本能ゆえか逃げる。
「逃がすか!」
「待て!」
追おうとしたリールを止めたのは勇人。
「深追いするな、追跡はシルバーに任せよう」
あれだけの深手を追って逃げる先に何がいるのか。
それを見極めなければならない。
そして、こちらも。
「‥‥今の‥‥」
ユアンが震える声を押し出した。
「今の何‥‥っ」
カオスの魔物にしろ、デビルにしろ、初めて混沌の生物と遭遇したユアンの胸中を襲った衝撃は限りない。
「‥‥エイジャの仇だ」
「――」
「あれが、エイジャの仇だ‥‥っ」
言うのは石動の兄。
その腕に、怯えきった妹を抱いて。
「‥‥っ‥エイジャの仇‥‥っ」
繰り返す彼に、いつしかユアンの頬に零れ落ちたのは一滴の涙だった。
●
翌日、再び集まった仲間達はシルバーの追跡によって黒豹が分国セレに逃げ込んだ事を知った。
そして、リラがそちらに旅立つと決めた事も。
「一人では難しいかもしれない。‥‥だが、私がやらなければ」
そう決めた彼を止められる者などいない。
冒険者達に出来る事は、リラが助けを求めて来た時にその手を差し伸べてくれる事だ――。