●リプレイ本文
季節は巡る。
水田を横切る薫風に頼りなく揺れる銀柔は、いつしかその背丈を伸ばし青い穂をつけていた。あとひと月も経てば、黄金に色づき、重たげに頭を垂れるのだろう。――実りが豊かであれば良いのだけれど。
吹き寄せる夏の風に葉裏の葉裏を翻す稲を視界の端に荷を積んだ馬の轡を引きながら、丙鞆雅(ea7918)は真っ白な雲の浮かんだ空を見上げた。熱気の溜まる江戸市中よりはいくらかしのぎやすいとはいえ、日中はまだまだ暑い。
「さて。土蜘蛛の次は、‥‥女郎蜘蛛でも出てくるか」
頬を伝う汗を拭いつつ江戸の“ぎるど”で、手慰みに紐解いた報告書の断片を思い出す。
誰にともなく落とされた呟きに、田之上志乃(ea3044)は伝えられる昔話を思い出して眉をしかめた。
「あの穴の奥さ居るなァ、やっぱ妖怪の類なんだべかなぁ‥‥?」
徳の高いお坊様の力を持ってしても、封印する事でしか収めきれなかったモノを相手に。――果たして、自分たちの力だけで何とかできるものなのだろうか。
はぁ、と。大きな吐息を落とした志乃の疑問形を引き継いで、腕組みをした陣内晶(ea0648)は眉間に大仰なシワを刻んだ。
「う〜ん。何となく穴の底にいるのはでっかい蝿な気もするんですが、大蜘蛛と言われるとそんな気もしますし。超弩級油虫だという線も捨てがたく‥‥」
どこまでが本気で、冗談なのか。
相変わらず飄々とつかみ所のない陣内の推測に、ぴりぴりと張り詰めていた緊張が少し緩む。
「大きな油虫だったら‥‥コレ、とっても役に立つと思うんだけどなぁ」
しみじみと息を落とした御神楽紅水(ea0009)の手に握られているのは、異国のお土産にと譲り受けた“G・ぱにっしゃー”――遥か月道の彼方にて、幾多の油虫に天罰を与えてきたとされる聖なる武器だ。
「とにかく。コレが終われば温泉ですよ、皆さんっ! ‥‥(混浴の為)‥に、頑張りましょうっ!!」
むしろこっちが重要だといわんばかりに気合の入った形相で。ぐぐっと拳を握り締めた陣内だったが、紅水の手に握り締められたままの武器の形状に気づいて続く言葉を呑み込む。――ゴキブリに留まらず、“ムシ”への効果は覿面であるらしい。
●封じられたモノ
蟲についての情報がほしい。
率直な鋼の意見に、小弥太は笑う。
「伝わる話は、村を荒らす悪しき蟲であったとしか残っていないな」
具体的に、どのようなモノであったのかは知られていないのだ。
蜘蛛であったり、百足であったり。――人が一見して気味が悪いと思うようなモノであったのかもしれないが。
此度の蟲は人を襲ったが、単に稲を食う虫であっても百姓にとっては“悪しき虫”にちがいない。
気難しげに考え込んだ鋼の横で、何か引っかかるものを感じたのだろう丙は僅かに目を細めた。
「なんだ?」
人を食う虫と、稲を食う虫。
どちらにも共通しているのは、“食べる”という行為。――生命が生き長らえるための最も原始的な要求だ。
「‥‥封印されていた蟲は、穴の中でどうやって生きていたんだろうな?」
ぽつりと落とされた丙の問いに、鋼と小弥太は顔を見合わせる。幾許かの沈黙の後、小弥太は僅かに険しくなった表情の奥で言葉を紡いだ。
「“巫蠱”という呪術を知っているか?」
「いや」
「壷の中に、蜘蛛や百足、蠍といった毒虫を押し込めておくのだ。餌を与えずに、そう‥‥」
餌を与えられないまま暗い壷の中に閉じ込められた虫たちは、やがて共食いを始める。生き残りをかけて命をかけて戦い、やがていちばん強い虫が最後に一匹だけ生き残るのだ。
「この虫の背負う怨念はとてもすさまじいもので、人ひとりなど簡単に殺すことができるといわれている」
陰惨としか例えようのない古の秘術に、鋼と丙は口の中に苦いものを広がるのを自覚した。
●祠への道
ざわざわと大気が揺れる。
風が通り抜ける気持ちの良い流れではなく、どこか落ち着かない苛立ちを誘う細かな振動。――例えば、小さな羽虫の飛び回る音を聞くような。
「‥‥ち‥厄介な」
火をつけた松明を大きく振って侵入者の気配に慌ただしく飛び交う虫を追い払いながら鋼蒼牙(ea3167)は洞窟の奥に広がる暗がりを覗き込んだ。
岩だらけの山肌にぽっかりと口を開いた洞窟は、もともとは自然にできたものであるらしい。長い年月をかけて少しずつ人の手が加えられ、祠としての体裁を整えたのだろう。
この場所を通るのは、これで3度目。
これでひとまずの決着がつけなければいけない。だが、このまま終わらせる気は、鋼にも隣に立つ火乃瀬紅葉(ea8917)にもなかった。
ただ、今はまだ―――
「相手が“蟲”に関わりのあるモノだというということは、間違いないのだろうが‥‥」
ソレを封じていた呪縛はすでに失われ、鍵となる数珠も何者かに持ち去られている。その上、彼らは敵の姿さえまだ知らないのだ。
単なる“蟲”であるのか、それとも“妖怪”の類であるのか。その見極めすら、まだ出来ていないことに、少し愕然とする。
「だども、何度きてもうざってぇだなぁ」
「飛んで火に入るモノだとは言うが、確かに面倒だな」
ぶんぶんとささくれ立った神経を逆撫でするような不快な音を立てて飛び回る蟲に、心底、辟易した声を発した志乃に丙もうむと頷いた。
洞窟に踏み込むのは、これで2回目。道筋に迷う心配はないだろうが、この音だけで忍耐が磨り減るような気がする。
「魔法なんかで、何とかなりませんかねぇ」
ちらりと小弥太に視線を送った陣内に何事か口を開きかけた雲水の隣で、紅水が思いついた名案に眸を輝かせた。
「あ、そうだ」
握り締めていた得物を置いて、指先が定められた印を結ぶ。
鮮やかな朱唇から紡ぎ出される言霊が世界を漂う精霊に語りかけ‥‥紅水の身体がほのかな青味を帯びた淡い光に包まれた。
すぅ、と。周辺の空気が、急速に温度を下げる。夏の陽射しに汗ばんだ肌が、ありえぬ冷気を感じた刹那――
紅水の掌で生まれた吹雪は、暗がりに蠢く無数の虫を巻き込んで洞窟を吹きぬけた。
●闇の底に潜むもの
祠の穴は、静かに冒険者たちを待っていた。
洞窟のいたるところに蠢いていた虫たちも大半は紅水の魔法−アイスブリザード−で吹き飛ばされ、生き残ったモノも寒さに動きの鈍った身体では丙や鋼の切っ先を制することは叶わない。
前回、ここを訪れたときよりははるかに手際よく虫の祠へとたどり着いた冒険者たちを待っていたのは、闇と静謐。――それが束の間のものであったとしても、今はただ無防備であるようにさえ。
「それじゃあ、さっさと塞いでしまいましょうかね」
石や木材など、それぞれが持ち寄った材料の検分と工程の確認を始めた仲間の背中と、祠の奥に口を開いた深い闇を交互に眺め、火乃瀬は掌で包んだ鬼神の小柄をぎゅっと握り締めた。
「‥‥紅葉は穴の中に入り、虫の主を退治しとうございます!」
「えぇ?!」
いつになく強い火乃瀬の言葉に、皆、驚いたように顔をあげる。そのひとりひとりの目を見つめ、男は胸に支える想いを紡いだ。
「ただ穴を塞ぐだけでは、また封印は解かれるやもしれませぬ」
2度目がないとは、誰にも言い切れない。
もう大丈夫だよ、と。約束することさえもできない。
「紅葉はもうあのように、民や子供が苦しむ姿は見たくありませぬ。後々の憂いを断つ為にもここで‥‥」
決着をつけてしまいたいと思う。
否、ここで終わらせなくてはいけない。――それは、ここにいる者たち誰もが心の奥で願っていることでもあった。
「‥‥‥でも‥‥」
苦しそうに眉根を寄せて息を吐いた紅水の言葉を継ぐように、志乃が引き継ぐ。
「‥‥オラたちでどうにかできる相手だと思うだか‥?」
昔話の。
仏の加護を受けた徳の高い僧侶でさえ、封じることしかできなかったという魔物を。――例えば、それが「無益な殺生を避けよ」という仏の教え‥‥慈悲の結果であったとしても。悪しきモノを釈伏できる力は、今の冒険者たちにはない。
「‥そ、それは―――」
やってみなければ判らない。
だが、それでは困るのだ。
「火乃瀬の気持ちは判るが‥‥」
ここへ来るまでの使える時間の全てを使い、蟲の伝説について何か得るものはないかと手を尽くした鋼にも火乃瀬の気持ちは痛いほど理解できる。
だが――
「俺たちには後がないんだ」
もし、失敗したら。
彼らが死ぬだけでは済まないだろう。――穴の底にいるモノに呼び寄せられた虫たちは、既に村をひとつ食い尽くしていた。
勝てるかも‥ではなく、絶対に負けられない戦いになると判っているから。
「‥‥確かに、倒せぬ上に封印された物の怪を野に放つのは一番の愚行に思いますゆえ‥」
今は、穴を塞ぐのが最善の選択であるのだろう。
それでも――悔しい。
村人たちの不安を完全に取り除くことのできない、己の未熟が‥‥本当に悔しい。
■□
石と土で穴を狭め、その上に板を打ち付けて泥を塗る。
傾いた社も引っ張り起こし‥‥全て元通りとはいかなかったが‥‥なんとか見られるように体裁を整え、最後にぺろりと舐めた指先を壁にかざして、志乃は仕事の出来映えを満足げに眺めた。
「うん。風さ抜けてる気配はないだよ」
しっかり塞がれている胸を張った志乃の言葉に、なぜかしら安堵が落ちる。
暗闇の底から、じっと見上げる視線を感じつつ作業をするのは、想像以上に精神をすり減らす行為であったらしい。
穴の底に何かがいた。
僅かな光に向かって手を伸ばそうとするモノの発する気配‥‥焦燥にも似た飢餓。あるいは、飢餓にも似た焦燥。
どちらであったのかを考えるゆとりはなかったけれど。
「終わったんだよね」
しっかりと塞がれた扉を見つめて吐息を落とす。
「ええ。終わったんですよ」
後は、村に戻って報告するだけ。――全てを忘れ‥る、ワケにはいかないけれど一時、のんびり手足を伸ばすのは許されるだろう。
「そうだ。あの子の名前、今度こそ忘れずに聞いておかなければ‥‥」
仕事の延長なのか、あるいは、単なる趣味の延長であるのか。泥だらけで緩んだ丙の笑顔からそれは判別するのは少しばかり難しい。
悔いが残らないといえば、嘘になるけど。
けれども、それは同時に新しい目標を見つけた瞬間でもあった。――強くなってみせる。力をつけて、いつか必ず。