●リプレイ本文
風が騒ぐ。
白く連なる峰を越えて吹き颪す大気のうねりは萌え始めた緑を揺るがし、雪下の眠りより醒めて間もない沃野を突き抜けて海へと奔る。
時に、人の営みをも薙ぎ倒す形なき力は、緩やかなる泰平を覆さんと波立つ時勢の気運にもどこか似て‥‥。
「申し上げます」
地の底、陽の射さぬ陰より湧いて出た声に、急勾配の頂に建つ山城にて緑立つ平地を睨下する男は、わずかに顎を引くことで沈黙をもって先を促した。
「彼の者等、矢吹より二手に分かれ、尚、行脚を続ける模様」
帰郷を促す恫喝程度の襲撃では、退かぬ。
並々ならぬ豪の者が揃っているのか、あるいは、退くわけにはいかぬ理由があるのか。いっそ愚かしいまでの直向さが、北を‥‥平泉を目指す彼らの真意を垣間見せてしまうのだけれど。
「蕉翁師弟は、物見遊山の外聞を崩さぬ腹か――」
先を急ぐ風もなく、名所、史跡にて足を止め、逗留先の心得者の求めに応じて句を披露することもあるという。
永らくの安定は、そこに生きる人の心にも余裕をもたらし、
天下にその名を知られる俳聖の名は、その後背を拝む者たちの姿を借りて襲撃者よりの盾となった。
「‥‥殊更、名を挙げて見せるのも、策のひとつやも‥」
隠し切れぬ名ならば、いっそ――
高名を囮として、本命を生かす。
あるいは、さらにその裏をかき泰然を装っているのかもしれない。
途上で道を分けた随行者たちにも、人目を忍ぶ風はないという。――むしろ、日のある内は街道にて距離を稼ぎ、夜は野営を避けて宿に泊まるという旅慣れた様子で追撃の手を鈍らせていた。
「昼間の街道筋といえば、無論、人目もございます。‥‥彼の者たちも攻めあぐねている模様」
孤立無援の敵地といっても過言ではない土地ではあったが、そこに暮らす者の全てが敵ではない。
揺るぎない泰平を信じて日を送る働き者で善良な農民が殆どである。――平和だとされるこの地では、野盗、山賊の凶行を装うには限界があった。
「なるほど。堪えきれば彼奴等の勝ちということか。‥‥だが‥」
平泉へは、まだまだ遠い。
思案にも似た太い笑みを口元に刻んだ漢に、声は淡々とその観測を摘み取る。
「いえ。直接、平泉を目指すのではなく、霊山城へ――」
「ほぉ。霊山‥!」
は、と。
思わず吐き出された笑声には、心底、愉快そうな色が宿った。
芽吹いたばかりのやわらかな青葉に飾られた城下に今いちど視線を投げて、漢は勢い良く踵を返す。
「馬を引け! 平泉へ参じる!!」
●霊山城
天を突き刺して聳える断崖の奇岩怪石をぽかんと見上げ、ロゼッタ・デ・ヴェルザーヌ(ea7209)は言葉を失くす。
「‥‥あれが、霊山‥?」
どこか神秘的な匂いのする文字を当てる地だと思っていたのだけれど。
おそろしく険阻な岩山は、城というより要塞といった趣が強いかもしれない。――攻めるための拠ではなく、守るための城だ。
「まさに絶景、だな‥」
地上からほぼ垂直に立ち上がる黒い火山岩の岩壁を彩る淡い緑に、野乃宮霞月(ea6388)も吐息を落とした。決して平坦ではない道を文字通り切り開いてきた目には、どこか拒絶されているような心細さも確かにあって――
ひとまずの目的地を目の前にした安堵と、先行きの不穏がない混ぜになって胸に飛来する。
大任を背負ったことで、先を急く心とは裏腹に。追っ手の目を逸らせるために道を分った蕉翁と大久保の負担を減らす為に、こちらも漂泊を装い、物見遊山の旅を演じる。
寺があれば立ち寄り、町を覗いて奥州の世情をうかがい。
隙を見せれば牙を剥こうと付きまとう追撃者の影にも、絶えず気を張って‥‥
江戸を発った時より、尋常な旅ではないと予想はできた。
だが、その覚悟を遥かに上回る極限の不穏と緊張が積み上げていく疲労は、思った以上に体力と精神力と削り取っていく。
そして、ようやく辿りついたその城は――彼らが目指す壮大なる結末へと続く第1の扉でしかなかったけれど――確かに未来へ繋がる扉であるように思われた。
縫い込んだ書状の存在を頼り、無意識に着物の襟に手をやった木賊真崎(ea3988)も託された使命の重さに強く奥歯を噛み締める。
江戸の総命を活かすも殺すも、
この書状‥‥引いては彼らの挙動に全てが掛かっている。
ともすれば、深く沈みがちになる思考を断ち切ったのは、明瞭な犬の鳴き声だった。
これまでの旅で何度も彼らに危険を報せ、勇気を与えてくれたその声も、今はどこか嬉しげで。
顔を上げれば、陸潤信(ea1170)と叶朔夜(ea6769)
のふたりがちょうど斥侯より戻ってくるのが目に入る。その顔色にも、精彩が戻ったようだ。
「急げば今日中に霊山に入れそうだ」
「道は?」
鑪純直(ea7179)の問いにも先の見えた明るさが籠もる。
「聞いてきた。霊山城に入る道は幾つかあるが、馬が通れるのは1ヶ所だけだそうだ」
「そこが正念場か‥」
馬を連れている以上、その道を通るしかない。
馬廻りの身には分不相応にも見える《霞刀》を強く握り締めた鑪に、叶は思慮深げに首をかしげた。
「霊山城下は、もう北畠公の直轄だ。――奥州将軍の膝元で、騒ぎを起こすとは考えにくい気もするが」
それもそうだ、と。
ちらりと笑い、ふと思いついて鑪は自らの姿を検める。
「北畠公と対面する前に、衣を改めることはできるだろうか?」
北畠氏といえば、神皇家を祖とする公家の名門。
さすがに馬廻りの形のままでの対面は、失礼かもしれない。――仮に、そういった体面にこだわらぬ人であっても、鑪にだってそれなりに見栄というものがあるのだ。
●北の公達
ずいぶん華やかな経歴の持ち主であると思う。
あるいは、貴族というのは大概にしてそういうものなのだろうか。
ロゼッタと肩を並べて謁見の場となった霊山寺の境内を歩きながら、奥州将軍・北畠顕家という人物についての情報を集めていた陸は思わず吐息を落とした。
権中納言家の嫡子として生まれ、14歳で参議、左近衛中将に任じられて殿上人に。
16歳で奥州将軍としてこの地にやってきたのだという。――宮廷内の権力闘争から距離を置くことで、見えたものがあるのだろうか。今も、陸奥の守・藤原秀衡麾下の将として奥州にある。
この公卿将軍は、城下の者たちには人気があった。
若くて都の香りのする公達であるから当然といえば、当然のような気もするが。――遙任を善しとせず、都から見れば地の果てのような場所へやってきたのだから、あるいは潔い人なのかもしれない。
「大久保様は『奥州在来の武将とはそのあり方を異にしている』って、仰ってましたわよねぇ」
それは、どういう意味なのだろう。
異邦人であるロゼッタや陸には、奥州に限らず日本における武家の在り方がいかなるものであるのかはよく分らないのだ。
公家、あるいは、武家と。
言葉では明確に分けているのだから、それに基するものがあるはずなのだが。――その線引きを見つけられないロゼッタだった。
「一般論とは逆の姿勢を取りたいということでしょうか?」
「‥‥それじゃ、単なる天邪鬼だ‥」
●国の在り様
「豊かだな」
何気なく落とされた野乃宮の呟きは、木賊の心にも深く落ち着く。
豊かで、そして、穏やかだ。
要塞でもある霊山城を廻ることは叶わなかったが、その城下やここに至までの道中立ち寄った町を見れば判る。
山地が多く、気候も厳しい。
江戸や東海道のあたりと比べれば、技術的には遅れていそうだ。――それでも、禾倉には備蓄で満たされ、馬も、武器も不足ない。
何よりも。
この地では、誰も街道を行く騎馬や兵士の姿に不安げに顔を曇らせたりはしないのだ。
百年をかけて、奥州が手に入れたもの。
その時の長さを思い知る。
『‥‥ば、奥州に野心を抱く者はなくなる‥』
遠い記憶を手繰りよせ、鑪は胸に支える棘に気づいた。
誰かがそんなことを言った気がする。
野乃宮もまた、昨冬の大火の折、謀略のひとつを止めるべく奔走した従姉妹の言葉を思い出して眉をしかめた。
平泉へたどり着くことができたなら――
奥州を理想郷だと信じてやまないあの野疾に会うことができるのだろうか――
●奥州将軍
忍び込んだ天上裏から、叶は北畠顕家なる人物を眺め下ろした。
木賊、野乃宮、鑪の3名と対峙する奥州将軍は、その高位からすれば驚くほど若い。――せいぜい叶と同年かそこら。将軍職を任じるだけあって貴族的な脆弱さを感じさせない白皙の美丈夫である。
御前にて陵王舞を披露するほどの名手であったと噂を聞いた。
その覇気と圭角で他を圧倒する独眼竜を《動》だとすれば、この漢は《静》。冷たい水を湛えた深淵のような、静かな‥‥それでいて、揺ぎない強さが秘めた人物だと思う。
「先ずは目通りをお許しいただいたこと。御礼申し上げる」
鞘を掴んだ右手を左手で押さえ――利き手で鞘を持つことで抜かぬ意思、さらにその手を聖なる手とされる左手で封じるという最上級の礼を尽くしてた木賊に、顕家は軽く会釈してみっつ置かれた床机を差した。
3人が音を立てぬよう注意深く腰を下ろすのを見届け、若い公卿武将はおもむろに口を開く。
「源徳公よりの使者だと聞き及んだが、その言、相違ないか?」
「相違ございません。――ここに書状を預かっております」
大久保より託された書状を証し、木賊はそれを目の前高さに掲げて差し出した。
本来ならば、陸奥の守以外に見せるべき物ではないのだが‥‥あえて書見を許す事で相手を陸奥の守と同列に扱い、重視しているのだとほのめかす。
書状を受けようと動きかけた近習を視線で制し、顕家はその口元にほのかな笑みを浮かべた。
「その書状は源徳公より陸奥の守様に託されたもの。陸奥の守様にお渡しするが筋であり、其許の役目というもの」
「‥‥よろしいのですか?」
よい、と。
明瞭な答えが返る。
さすがに反応に迷い、戸惑い気味に書状を下げた木賊と、隣席にて視線を交わした野乃宮、鑪を順に眺めて、顕家はゆっくりとタネを明かした。
「実は、其許等を待っていた」
「「「えっ??」」」
危うく床机から腰を浮かせそうになり、野乃宮は慌てて両の手で膝を抑え、口を突いた声を押さえる。
「白河を越えてよりの其許等の動きは掴んでいたのがまずひとつ。――伊達政宗殿より使者が参った」
源徳よりの使者を名乗る者が霊山城に辿りついた暁には、その者たちを平泉へ送り届けてほしい。
伊達家の使者は、そう告げてきたのという。
「確かに。あの者の真意がどこにあれ、対話の機会は逃すべきではないと思う」
自力で建つ力を持つ自力で起つ力量持つ奥州が、江戸と上州の諍いに手を貸すに利は無い。むしろそれに乗じて、双方を攻め落とせる位置にある。――だからこそ、源徳も捨て置くわけにはいかないのだ。
「‥‥僭越ながら、北畠卿は他の武家とは異なり神皇家に近しきお方。今上様の叔父上に当たる源徳侯へのご助力には特別な意味がございましょう」
「確かに。形だけを見れば、其許の言は理に適う」
木賊の言に深く首肯したものの、公卿にありながら将軍の地位を持つ漢は静かに水をさす。
「たかだか武蔵国を治めるにすぎぬ武家の血が神皇家に入り、その年端ない童が他を押しのけて帝位にあるコト。その過程に、漠然とした歪みを感じる」
歪みより生まれた理に、正道はあるのだろうか?
都の権力闘争より遠く離れた地にあって初めて見えてくる歪みなのかもしれないし、政にも嘴を挟みはじめた武家の台頭を快く思わない公卿の驕りなのかもしれない。あるいは、若さゆえの潔癖さであるようにも思えた。――思いがけない返答は、対面した三人だけでなく屋根裏部屋にて仔細を耳にした叶の胸にも波紋を投げる。
「この騒乱の風をいかように治めるか。その見届け方を決めるのは陸奥の守殿の裁量となろう」
平泉までの道の平坦は、この顕家が保証する。
後は、その目、その心にて奥州の声を聞かれるがよい。――開かれた扉の向こうから姿を顕したのは、尚も厳しく長い道のりだった。
この道が続く未来を選び取る任を託されたのは‥‥
果てしなく、そして、あまりにも重い未来に眩暈がした。