●リプレイ本文
これを壮観と言って良いものか。
一足ごとに深く、しかもべったりとまとわり着いて重くなる足元の泥濘から視線をあげて、陣内晶(ea0648)はやれやれと肩をすくめた。
突然、暴れ出した川の氾濫で堤防が決壊したとは、一応、話に聞いていたのだけれども。
雨上がりのようなやわらかく濡れた路面から始まって。
気がつけば、あたり一面、水浸し。――街全体が泥田の中に浮かんだようなこの状況は、聞きしに勝る。
「はわっ! 川の氾濫なんて、大変ですよ〜」
泥濘に足を取られて苦労する驢馬の頭からふわりと宙に舞い上がりぐるりと周囲を見回したアイリス・フリーワークス(ea0908)の視界に映るのも、田起こし前ののどかな田園風景ではなく‥‥見渡す限り、泥の海。
街の向こうで、轟々と逆巻き流れているのが境川なのだろう。
堤防を押し流して周囲を呑み込んだ水はさすがにいくらか引いているようだが、その勢いは相変わらずだ。――台風一過、橋の上から覗き込んだ大川の流れにも似た濁流の勢いに、アイリスは思わず首をすくめる。あの日の水精は、勇み、笑っていたけれど。
今は、誰かの強い怒りを感じる。
水精の呼吸を読み取るのは、御神楽紅水(ea0009)ほど得意ではなかったが‥‥精霊魔法の使い手、あるいは、妖精としての感覚が受け止めるこの感情はとても判りやすい。
怒っているのだ、この川は。
「なんだか怖いですよ〜」
しょんぼりと驢馬の頭に着地したアイリスに、田之上志乃(ea3044)は少し考え込んだ。
一刻も早く、奈良屋茂左衛門を江戸へ連れ戻して蓑虫茶寮の蔵を開いて欲しいのだけれども。――いろいろと一筋縄ではいきそうにない波乱の予感がする。なにしろ‥‥
「‥‥大丈夫ですか〜?」
ぴいすけと名づけられた翼のない巨鳥からなるべく距離をとるよう心がけつつ、陣内は肩越しに暮空銅鑼衛門(ea1467)を振り返った。――強暴とまでは言われぬものの、暴れ馬と同程度では、手を貸そうにも危なくて。
もちろん相手が女性であればいちもにもなく駆け寄って手を取るところだが、残念ながら小柄とはいえ暮空は男‥‥それも、あと2年もすれば還暦に手が届こうかという立派な御歳。
「‥‥な‥んの、これ‥しき‥‥」
小柄で年相応に小太りのオジサンが、大量の荷物と泥に埋もれてうんうん呻っている様は、見ようによってはある意味、可愛らしくもあるのだけれど‥‥残念ながら陣内の嗜好にはヒットしない。――若葉屋の店長代理という社会的地位を思い起こせば、久しぶりとなる冒険の図というより、何だか別のものに見えなくも‥
「とっても重そうですよ〜」
「んだな、むちゃして腰を痛めねばええんだが‥」
心配そうに見守るアイリスとの隣で、陣内同様、これが女性であれば何らかのリアクションを起こしたと思われるレイナス・フォルスティン(ea9885)は、その不吉な予言にちらりと眉を顰めた。
「腰は男の命なのに――」
客人を待たせるのは、商人の心得によれば禁忌だが。
この泥の湿地をものとせず万難を排して駆けつけた一行の様子を見れば、到着の遅れた言い訳も立つ。
通行手形と茂左衛門への書付を届けにやってきたのが、奈良屋の番頭でなかった幸運に感謝しなければ‥‥
●奈良屋の秘密
「茂左衛門さん、あなたって人は! どうして温泉郷で、助けを呼ばないんですか!」
どうにかたどり着いた川辺郷の旅籠にて。
泥と旅の汚れを落として、感動の初顔合わせ‥‥の、開口1番。江戸屈指の豪商との対面を心待ちに構えていた暮空が口を開くよりも早く、口惜しげな恨み言が座敷に響いた。
温泉作法生活なる称号を有するフォルスティンではなく‥‥温泉より、むしろ混浴(ここが肝心)露天風呂を愛する男、陣内である。
「だいたい、僕らが此処にたどり着けるってことは、その気になれば自力で帰って来れるでしょうに」
「バカ者! せっかく疲れと汚れをさっぱり洗い流したというのに、泥を漕いで戻っては温泉を堪能した意味がないではないか!!」
確かにそれはご尤も。
そして、やっぱりお金持ちは我儘だった。
旅籠をひとつ借り切ってその奥座敷で踏ん反りかえる痩身の老人は、威厳、気概共に矍鑠と壮健そのもの。未だ、当分は第一線で頑張れそうだ。
「とかなんとか言って、ホントは僕らを呼んだ理由があるんじゃないですか〜?」
一筋縄ではいかぬ御仁だからこそ、何か裏があるのかもしれない。
ちらりと眇めた陣内の視線に、茂左衛門は少し気まずく視線を逸らせる。――当たらずとも遠からずといったところか。
「‥‥ないことも、ない‥」
ほら、やっぱりね!
ぐっと勝利の拳を握り締めたいところだが、さすがにそれは我慢する。陣内に代わり、暮空が膝を進めた。
「それで、ユーがこの川に何かしたということは?」
「それはない。――偶然とも思いにくいが、儂の目的がこの異変に関係があるという確証もない」
「大番頭さァは、旦那さァが何ぞ思案あって留まっとらっさるつぅとっただども。もし依頼さ関わる事だら、詳しく教えて欲しいだよ。‥‥秘密は守るだ」
いつになく真摯な志乃の表情に、茂左衛門は思案げに視線を宙に泳がせる。いくつかの懸念と結果を想定し、最善と思われる策を選び出すのは彼の得意分野であるはずだ。
束の間の沈黙。
そして、茂左衛門はゆるゆると息を吐く。
「この川の上手に山があってな。その頂に、ちょっとした社がある――街の者に訪ねれば、詳しいことは教えてくれるだろうが――なんでも山の神だか、天狗だかを祀っておるそうだ」
そこへ、行きたい。
それ以上の理由は、曖昧に笑うばかりで答えてはくれない。――彼らはまだ、茂左衛門にとって役に立つ‥‥駒だとさえ、認められていないのだから。
●境川の昔話
「やっぱり、なんだか怖いですよ〜」
志乃が綱の端を握る大凧に掴まって舞い上がった青空の高みで、アイリスは相変わらず衰えぬ流れを見下ろす。
魔法の凧に頼らずとも、アイリスにとって空を飛ぶのは簡単だけれども。見知らぬ場所で、迷子にならない自信がない。――こちらの方が、狼煙を上げてもらうよりずっと確実だ。
相変わらずアイリスのスカートの中が気になって仕方のない陣内だが、凧と同じ高さまで上がってしまえば、もう下穿きなんて見えやしない。優良視力のひとつも鍛えておけば良かったと悔やんでも遅いんだからねっ。
高いところから見下ろすと、川の流れは一目瞭然。
重なり合う山から流れ出したいくつかの流れが、寄り合わされて大きな川に。――冬期に眠る灰緑の大地に青い筋が蛇のようにうねり横たわっている。その腹を割くように堤を切ってあふれ出した濁流は、さながら流れ出た血のようだ。
冬場は、雨が少ないのだという。
実際、この日も天候は晴れ。湿り気程度の雨はあっても、川が増水‥‥まして、堤防の決壊を心配するほどの降水はない。
にも、関わらず。川はあいかわらずの荒れ具合で――
やはり、彼は怒っているのだと思う。
「‥‥彼? 川の精は女性じゃないんですかぁ?」
それも、若くて美人の。
ここが肝心だと強く言い切る陣内に、志乃は少し考え込んだ。――確かに、川姫と呼ばれる精霊の存在は、詳しい者の間では良く知られているけれど。
世間には、男川、女川と喩えられる河川も多いのだ。
「ああ。それなら、境川の神さんは男かもしれんなぁ」
そう言ったのは、急な増水で漁ができず、手持ちぶさたに網を繕っていた川漁師のひとりで。境川について聞き込んでいた異邦人が珍しかったのか、足を止めたフォルスティンを相手に、何やら意味ありげな笑みを投げて寄こした。
「嫁取りにずいぶん苦労したらしいから‥」
ひとりと言わず、ハーレムに暮らしたいなんて野望を持つフォルスティンにはなんだか敬遠したい話題かも。
なんて言っても、この辺りではちょっと知られた昔話であるらしく。フォルスティンだけでなく、境川についての伝承や昔話に興味を示した暮空や志乃の耳にも、川の神と村人たちの頓知話は容易く飛び込んできたのだった。
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昔々――
これは神と魔と精霊が相争い、混沌と麻の如く乱れた大地がようやく落ち着き始めた頃のお話です。
××郡、川辺の郷というところに、太郎坊という川の神がおりました。
太郎坊は陽気で、勇ましく‥‥神魔騒乱の頃にはたいそう活躍もした神さまでしたが、少しばかり乱暴者で、田畑に水の恵みをもたらしてくれる半面、怒り出すと手がつけられなくなるので、川辺郷の人々も皆、手を焼いていました。
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「なるほど。そんな乱暴者には、神様でも嫁のなり手がなかったとゆーワケですな」
御伽噺というのは一見微笑ましいのだが、何故か所々妙に現実的で。素直に笑って良いものかどうか迷ってしまう。
ため息交じりの暮空の嘆息に、陣内とフォルスティンも神妙に顔を見合わせた。――そう、明日はわが身かもしれない。
問題は‥‥。
これは、何も太郎坊ばかりではないのだけれど。‥‥上手く行かぬその根源を己の非にあると理解しているとは限らないという点だ。自分を愚かだと知っている者は、馬鹿ではない。そうでない者が多いから、世の中はままならぬのだけれども
嫁のなり手もいないので、川の神は荒れてますます乱暴者になる。
思わず、ため息を付きたくなる悪循環。
だが、ここはとりあえずめでたく収まるのがお約束の御伽噺なので、川辺郷の村人たちに力強い味方が現れないと。――奈良屋茂左衛門が木に掛けていた社の主、山の神様の登場である。
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困った村人たちは、山の神様に相談しました。
相談を受けた山の神様は、この山に古くから生えていたナナカマドの神木から美しい娘の人形を作り出し、村人に与えます。
村人たちはこの娘に花嫁装束を着せ、祝言の酒やご馳走と一緒に竜神淵より川に流したところ、川の神はこれを喜び‥‥以後、境川は穏やかに治まりましたとさ。
めでたし、めでたし。
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「え、ええ〜? め、めでたいのですか〜?!」
思わず頭を抱えたアイリスを通り越し、志乃と陣内は顔を見合わせる。
アイリス同様、フォルスティンも話の理解に苦しむけれど。暮空にとっても、ある程度はお馴染みの内容だ。
御伽噺としての筋は、一応、通っている。
あとはこの話の裏に隠された秘密の鍵をいくつ見つけ出せるか。――相談の席で、人柱、若い娘と言い合ったのは、もちろん冗談だったのだけども。
●山の神と風の声
その風は、西から吹いてきたのだという。
茂左衛門が温泉郷よりこちらの宿場に戻る、ちょうど前日のことだ。
江戸の御大尽ん逗留するというので、旅籠ではお店を挙げて歓迎の支度に追われていたちょうどその頃‥‥目が回るほど忙しかったこともあり、誰も深くは受け止めなかった。
ただ、思い出せないほど、ありふれた出来事でもなくて。
変わった事はなかったかと問うた暮空に、洪水の後片付けに追われる手を止めて首をかしげた者がいる。
風は西から吹いてきた。
ざわざわと心を揺さぶり、落ち着かぬ気分にさせる風だったという。――街の者の中には、誰かが慌て急き立てるような声を聞いたと言う者もいた。
天狗風。
そう呼ばれる風は、凶兆‥‥あるいは、吉兆の前触れであるとか、ないとか。
「聞けば、西国では神の目覚めが噂されておるそうな」
座敷でひとり碁を並べつつ冒険者たちの話を聞いた奈良屋茂左衛門は、ふむと思案を宿した視線を居並んだ者たちへと向ける。
「なるほど、と。思うての」
それで、様子を見ようと街に留まれば、川が氾濫してこの有様。
ますます、好奇心が沸いたということらしい。――神が居るというのならば、会ってみたいと思うのは道理だが。
奈良屋だけでも《フライングブルーム》で江戸に送り返したいとの暮空の目論みは、宛がはずれそうな雲行きだ。と、いうか。いくら矍鑠としているといえ年寄りひとりを異国の乗り物――どう見ても箒――で、帰すというのは無理がある。何のための迎えだ、と。奈良屋から苦情が出るのはたぶん、きっと間違いない。
「でも、どうして山の社なんですかね〜」
可愛らしく小首をかしげたアイリスに、茂左衛門は笑みの形に歪めた唇からからからと笑声を吐き出した。
「そりゃあ、川の神が目覚めたのなら、山の神も起きておろう。――聞けば、川の神の無体を止める方法を知っておるのは、山の神だと言うではないか」
それは、確かにそうなのだけれど。
それだけでない、何か。――この老人の腹の中には、もっと別の企みが隠されているような。
わずかに眇めた志乃の視線の先で、茂左衛門は懐から小さな巾着を取り出して眺め、また懐の裡へとしまいこむ。
「とはいうモノの、山の神とやらも鬼がでるか蛇がでるか‥‥道理の通るモノだとは限らぬのでな。悪いとは思うたが、そなたらを利用させてもらうことにしたのだ」
『腕の立つ者』には、そういう意味もあったのだ。
こんなこともあろうかと想像はしていたけれど。――川の神と山の神。話が通るのは、さて、どちらだろう。