事件1
担当:
樹シロカ
低く垂れこめる灰色の空からは絶え間なく雨粒が落ちて来る。
それでも外の空気は美味い。ハッチから顔を覗かせた加持はしみじみとそう思い、改めて陰鬱な気持ちで黒い船体を眺めた。
そこでは彼らが命を預けている潜水艦『らいりゅう』の乗組員たちが、険しい目を海に向けている。
「何か分かりましたか」
加持が声を掛けると、一人が振り向いた。艦長の家永2等海佐という壮年の男だ。
「残念ですが。やはり現在位置を特定できる物は何も視認できませんでした」
「そうですか……」
港で見た潜水艦は巨大でいかにも堂々としていたものだが、大海に漂う姿は情けない程に惨めだ。
加持は自分のスマートフォンを見る。そこに示されている情報によると、ここは『南緯65度、東経30度』らしい。南極大陸辺りだろうか。勿論、嘘っぱちだ。
あれからもう何時間経過したのだろう。海自の士官たちの時計が示す時刻までもがバラバラで全く予測がつかない。
何でもない取材の筈だった。
地方新聞の記者である加持は海上自衛隊の基地祭に出掛け、配備されたばかりの『らいりゅう』を取材していた。
そこに謎の高波が押し寄せた。高波というより、子供じみた表現で言うなら海坊主。とにかく丸く盛り上がった水の塊が、護衛艦を一隻あっという間に飲みこんでしまったのだ。
基地関係者は直ぐに見学者達を避難させたが、少し離れた場所に居た加持達はその海坊主の前を通らなければ逃げられない。
家永艦長の決断は速かった。その場の人間を『らいりゅう』に回収したのだ。機密よりも人命を優先した判断は、実に立派といえよう。
だがどうにか全員が乗り込んだところで、海坊主は潜水艦をも飲みこんだ。
潜水艦は玩具のように、めちゃくちゃに引き摺り回された。
全員が頭や体を酷くぶつけたり、船酔いでボロボロになったりしながら、どうにか浮上したのが数時間前。
だが辺りには陸地は見えなかった。
レーダーも通信機も各人が所持している電子機器も全く使いものにならず、それぞれ好き勝手な現在地を示している。ちなみに加持の隣にいた学生が持っていたスマートフォンでは、ドイツのロマンチック街道辺りになるらしい。
そんな異常な状況の中、加持は辛抱強く全員の名前やプロフィール、所持している主な物などを聞き込み、可能な限りまとめ上げた。お陰で乗組員と一般人の橋渡しの様な役割を担うことになっていたのだ。
艦長が突然呟いた言葉に、加持は我に帰る。
「ねじれたる地、か……」
怪訝そうな顔を向けると、艦長は少し困ったような笑みを浮かべた。
「申し訳ない、子供の頃読んだ冒険小説を思い出しましてね」
「どういう物語ですか?」
促すと、艦長はそのあらましを語ってくれた。
――この広い海のどこかに途方もなく古い遺跡があり、その奥には沢山の宝物が眠っている。
だが望んで行けた者は少なく、偶々迷い込んだ者のほとんどは帰ることなく、稀に戻ってきた者は皆が正気を失って後に行方知れずとなっている。
僅かに残された記録によれば、気紛れに神殿に導く海路はあれど、その途上にはこの世ならざる物が立ち塞がる。
だがその記録は余りに突拍子もなく、遭難の恐怖が見せた幻ではないかとも言われていた――。
「ああ、脅すつもりはありませんよ。皆さんには黙っていてください。私は昔から船乗りに憧れていたので、まだどこかで今の状況に興味を持ってしまうようですな」
艦長は雑談で気を紛らそうとしてくれているらしかった。直ぐに表情を戻すと、加持に船内に戻る様に告げる。
「雨も弱くなってきたようです。夜なら星で位置が推測できるでしょう。それまで我々も交替で休息を取ることに……」
そこに鋭い声が飛んだ。
「艦長、あれを!」
「どうした」
声を上げた男が指さす先には、盛り上がる丸い波。
「退避ッ!」
加持はほとんど落ちるように梯子を降りる。上では艦長がハッチの縁を掴んでいるのが見えた。
ぐらり。
不意に足元がふらつき、艦内に悲鳴が響き渡った。あちらこちらから、ギシギシ、ミシミシ、と鉄の塊が軋む音がする。
「何があった!?」
艦内の人々は逃げ場もなく、ただ怯えた顔を見合わせるしかない。
そのとき、ひとりの若い女が素っ頓狂な声を上げた。
「やだァ、なによこれ!!」
女は役に立たないと判っていて尚大事に握っていたスマートフォンを放り投げる。
それは廊下を滑り、加持の足元にぶつかった。
「どうし……」
覗き込んだまま、加持は言葉を失った。
液晶画面に映るのは、先程まで上で見ていたこの潜水艦の姿だった。
その舳先には白く細長い触手が幾本も絡みつき、艦は前のめりに海へと引き込まれつつある。
手摺に縋っていた制服姿の人間が数人、転がりながら落ちて行く。
加持はそれが外の今の様子なのだと確信した。
根拠などない。もしかしたら自分はもう狂っているのかもしれない。
けれどもはっきりとわかることがあった。
潜水艦は今、海中深くへと潜航しつつある。
液晶の画面にはひとつ、またひとつと、数を増しつつこちらへ集まってくる何かの影が映っていた。
○ライターよりご案内○
時間も空間も歪んだ海に導かれし潜水艦。他にも辿りついた船があるかもしれません。
巻き込まれた人々を皆様の神話生物があるいは狂気に陥れ、あるいは海底遺跡へと導きます。
果たして、小さき者達はどのような行動に出るでしょうか……?